平成19年4月現代まちづくり塾
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■塾生の話題提供

ランズ計画研究所 穴水秀人氏
テーマ:岩槻で魂消た!


○集落と環濠
1月に行ったバングラデシュとブータンで影響を受けて、覇権国家インドや国民総幸福量(GDH)の話をしたいと思ったが、昨年の時点で話したかったことを紹介したい。
はじめの資料の横浜市の大塚歳勝土遺跡は弥生前期の遺跡で環濠集落を囲む形で濠がめぐらされている。
瀬田城は集落を濠で囲む形で城ができているので面白いので乗せた。
ルッカを比較したのは、民衆の生活を守る城として共通点があると思った。

○岩槻
岩槻城の城下町に出かけた。
インターネットの地図で見るより遥かに規模が大きく驚いた。
岩槻駅を降りて歴史資料館に出 かけたが、そこで見たものは水城というより町全体が城のように濠と土手(お土囲)で囲まれている。
造り酒屋のご主人と話をしていてかつては岩槻を取り巻く“お土囲”が民家の二〜三階ほどの高さくらいあってがあったが戦後すぐ、町の財政難で売ってしまったという。
今でこそ人形の街とはいうが普通の街になってしまっていて、御主人は大変残念がっていた。

○狐の伝説
岩槻が秀吉に攻められたときに狐が守ろうとしたという伝説がある。
館林城にも同様の伝説がある。
歌舞伎・義経千本桜を見たときにも狐が出てきて狐は不可解な事象への言い訳に適しているのでは、と思えた。
狐(稲荷神)を含め、西洋の街のように城にも創世伝説がある。
八王子城は僧侶の前に牛頭天王の八人の王子が現れ、この地は未来永劫繁栄すると告げたという。
前出の館林も狐が尾で城地を指し示したので尾曳城の別名がある。
一連の合戦のなかで、秀吉は敵を殺す政策をとり家康は 後に関東に入るため敵に対する懐柔策をとった。
なぜか徳川四天王の一人、本多忠勝が関与して落ちた城が多いのは家康がなるべく関東を無傷で手に入れたかった事の表れではないか。

○お土囲
岩槻城のようなお土囲が出来たのはなぜか、住民を囲い込んでまで闘うのはなぜか、後北条氏は住民に対しても代価を支払う価値があっのたか。このような大城郭がなぜ北関東の地にあったのか。
いろいろな説があるが、関東の防衛線を築いた小田原北条氏の見栄であるという説もある。

○歴史
名胡桃城事件をきっかけに東海道からは秀吉本隊が、碓氷峠からは上杉・前田ら北陸支隊が、海路からは九鬼・脇坂・長曾我部らが進入した。
各地の城は奮戦するも次々に開城、しかし、そのためかえって八王子城ほどの悲劇は起こらなかった。
八王子城は小田原北条氏の支城だったが北陸支隊、殊に総大将前田利家のやり方が甘いと感じた秀吉により徹底的に攻められ、一日で落城してしまった。
韮山城など一部の城も奮戦するが、北条氏は滅ぶことになっていった。
北条氏は関東で百年も生きてきたので秀吉でも攻めるのは難しかったが、戦国時代のなかで小田原は開城してしまって関東は家康の政権に引き継がれた。

○北条氏の家臣が後に歴史を書いているが、土豪農民クラスも読みたいという欲求にかられたという。
徳川氏によって無名となってしまった庶民の歴史も託したかったのではないか。
歴史をふりかえると北条氏は関東全体を城にしたかったのではないかと思える。
教科書には出てこないがこのような歴史の上に今の私たちがある。

○会場から
・お土囲はどこにあったか
→現在の岩槻を囲む形で濠の外側にあった。
北条氏は市民寄りの政権をつくりたかったのではないか。かつては日本の中には、色々な政権があったのではないか。
特に北条氏は、まるで京都の政権を無視して独自の政権を目指したのかも 知れない。
・岩槻が例外的にお土囲に囲われていたというのはなぜか。
→平城だからでしょう。日本最大の平野である関東では、城もまた他の地方とは異なる形態に進化しようとする筈である。
・岩槻の遷喬館という藩校の茅葺屋根の補修をして、江戸城のベースというのはこういう感じだったのではないかと思った。
→江戸城は小さくて市民が入れないが、岩槻城は市民が濠に囲われている。
・穴水さんの証明したかったのは、岩槻のお土囲の思想から発展して、後北条氏が関東平野という広大な地域を占めることが出来たのではないかということか。
→官民一体としてこの政権が信頼に足る政権か、一緒にこの城にこもって戦えるかという住民の側からの判断があったのではないか。
→後北条氏の異常なまでの城作りは関東平野を治めるにあたり、国境または防御ラインとしての支城網が必要だったのではないかと思う。
・戦国時代は地方分権の時代だったと思う。
・なぜ城郭をつくらない日本で岩槻は例外的に都市を囲ったのか。わざわざ都市を囲まなくてもよかったのではないか。
・ヨーロッパは都市を高いところにつくる。日本では山城もあるが平地につくるケースも多い。
→かっての城下町は水を流しながら生活していた。平地は住むのに適していたのではないか。


NPO法人まちづくり協会
「現代まちづくり塾」担当・三橋重昭
平成19年4月21日



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