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★★7月度「現代まちづくり塾」(第30回)報告★★日時:2005年7月16(土)13:30〜17:00 場所:文京シビックセンター3F会議室C |
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■田村明「現代都市・まちづくり講座」 −都市の過去・現在・未来− 第一部都市の原理(T〜Yまで予定) T都市の発生とその意味−都市文明を問う(修了) U世界の都市とその興亡−都市文明の歴史−比較都市論 −人間はどのような都市をつくったか−(シリーズ15回目) テーマ:13.江戸の都市生活2(人々の生活様式など) 講師:田村明氏(地域政策プランナー) 参加者:14名 ○庶民生活 長屋は9尺2間に一家が住んでいて狭かった。井戸まで上水で運んだ用水がきていた。 職業としては3職(大工、左官、鳶)の建設業があり火事があると仕事が増えた。また棒手振りという天秤棒で魚や野菜を売り歩く職業や、修理屋、師匠、浪人などが居た。 寺子屋が多かったので幕末には識字率は高かった。緒方洪庵の適塾などがあった。貸本屋や出版業もあった。 湯屋、髪結床などもあり社交場になっていた。男女混浴は普通だった。 縄暖簾、めし屋があり外食もさかんだった。 縁日などの盛り場もあり武士が歩いていたりした。 広小路には見世物小屋が立ったりした。 ○災害と犯罪 仕事にあぶれると社会保障は無かったが、時々起こる火事はフロー活性化エネルギーとなった。隅田川の砂州にあった石川島は無宿人の職業訓練場だった。 瓦は落ちて危ないので瓦葺は禁止だった。 ○楽しみ、文化 水茶屋があちこちにあった。 神田明神の祭り、山王神社の祭りは天下祭りとして江戸城に入れた。パレードが主で神輿はその一部だった。神田明神の平将門は朝敵だったが江戸の庶民の英雄だった。山王神社は徳川の神社だった。3番目は深川の祭りだった。 芝居は木挽町あたりから起こり贅沢なので猿若町に追いやられたが庶民の楽しみだった。 相撲、花火は両国にあった。 花見は吉宗が奨励し飛鳥山、上野、隅田川、小金井などで出来た。花は染井吉野でなくていっぺんには咲かなかった。 富士山はよく見えた。旅行は大山講、江ノ島、京・大阪、伊勢などに行った。 ○アジール(避難所) 縁切り寺(東慶寺)は江戸のアジールだったのではないか。縁切り状があると再婚できる。尼寺もあり女性の地位は低かったが救いもあった。 富士信仰があり、富士山は美しくて恐ろしい山だった。富士塚は富士山を模ったもので登山の真似事ができた。 ○江戸っ子 山手は外様大名が住んでいて孤立していた。 江戸っ子の代表、幡随院長兵衛は佐賀から来た。 佃島は大阪から来た漁師の地名で隠密だった。 生来の江戸っ子はあまり居なかった。 侍は田舎者集団だった。野暮に対抗して「粋(いき)」、権力に対抗して「張り」という反骨精神があった。 一方では「三代続かなければ江戸っ子でない」という権威意識もあった。 江戸しぐさ、染井吉野などの町人文化が発達した。 ○会場から ・長屋の話があったが、江戸の町割の原則はあったのか。町割には町触れのようなものがあったのか。 →長屋ではなく表だなには町割があったが裏だなにはあまりなかった。町触れではなく自然に出来上がった。禁令はあった。 ・現在は建築は自由になったのか。 →いや現在もデザインについても思想統制みたいにものを感じる。ソフトな規制がある。江戸にも町屋で三階建ての楼閣建築がある。 ・佃島の海の隠密の役割は何なのか。 →海から攻められないように見張りにした。 ・大名の江戸屋敷の回りにも国から町人を連れて来れたのか。 →いろいろな人間が集まって来たので都市の始まりと言える。・国から移住した人間の国の意識もあったのではないか。 ・識字率の高さとか学習意欲の高さにはその必要性があったのか。文字は共通言語としてあったのか。 →日本人の性質として好奇心があったのではないか。就職のために読み書き算盤が必要だったのではないか。江戸は近世最大の都市だった。 |
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