平成17年6月現代まちづくり塾
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★★6月度「現代まちづくり塾」(第29回)報告★★
日時:2005年6月18(土)13:30〜17:00
場所:法政大学市ヶ谷キャンパス80年館7F会議室

■田村明「現代都市・まちづくり講座」
−都市の過去・現在・未来−

第一部都市の原理(T〜Yまで予定)
T都市の発生とその意味−都市文明を問う(修了)
U世界の都市とその興亡−都市文明の歴史−比較都市論

−人間はどのような都市をつくったか−(シリーズ13回目)

テーマ:13.江戸の都市生活

講師:田村明氏(地域政策プランナー)

参加者:17名

●江戸の武士
江戸の人口は100万人〜160万人と言われているが詳しいことはわからない。それでもロンドンが80万人というから世界でも大都市だった。土地のほとんどは武家地で町地は少なかった。幕府の直轄地のほかに大名の下屋敷もあった。まわりには組屋敷があったが後には貸家としても使われた。江戸詰めのため大名の約半数の130人ほどは江戸に居た。出替りという一時雇い使用人もいた。
町人は、家持、家守(大家)、地借、店借、店子などが居た。家守(大家)は大きな役割を果たしていた。
寺社には、僧侶、神主、按摩、虚無僧、楽人(音楽家)、など多様な連中がいた。えた、非人は人のいやがる仕事をやらされていた。処刑の片付けなどは非人がやらされていた。ほかに無宿者、役者なども居た。
また大名は子供がいないとか無断で普請をしたなどの簡単な理由でお家廃絶になり浪人が増えた。初期の50年間で217家が廃絶になり40〜50万人の浪人の多くが江戸に住んでいた。

●自治と支配
自治として寺社奉行、勘定奉行、町奉行、の三奉行と大目付、目付がいた。行政の仕事をしていたが、わずか300人ほどだった。自治組織は町奉行の下に町年寄、名主、地主、五人組、家守がいて自治組織としてあった。町人には税金はなく地主負担の町入用があった。1600町に木戸があり夜には閉められた。

●江戸の範囲
江戸町奉行が管轄している土地は明治時代の旧15区のうち町地のわずかな土地だった。情報は与太者がとっていた。旗本、大名が御府内から出るときは許可が必要だった。広さは歩ける範囲、約2里(8km)の範囲だった。

●暮らし
江戸の末期には今で言うエコシステムと言える町らしい文化があった。大久保主水が神田上水から水道をひいた。下町には溜池上水、西からは玉川上水を引いた。後にはスプロール化防止のためか玉川上水の一部の使用を禁止した。
古着、古道具、ろうそく、灰なども再生利用されていた。今の木場周辺はごみの埋め立てで出来た。し尿は肥料として使われた。佃(つくだ)は隠密の役割のため大阪から連れてこられた。

●交通・運輸
交通は水運が主だった。水路のほかに舟入があって物資の流通や舟遊びなどに使われた。し尿は天秤棒や大八車で郊外に運ばれた。し尿の権利は大家にあった。

●会場から
・税金は無かったが住民は把握されていたのか。
→把握されていた。

・碁、将棋は誰がしていたのか。
→プロが居た。

・江戸の行政は小人数でやっていたが、自治の問題としてはプラスに評価してよいのかマイナスに評価するのか。明治維新は近代化の革命だったのか。
→うまい自治だったのではないか。

・木戸番は1600町もあったが京都には無かった。江戸の閉鎖的な体質をあらわしているのではないか。
→分断してコントロールしていたとも言える。治安は重要である。

・サカヤキは住民監視装置だったという説もある。

・江戸の町は広場や公園が無いが道路管理や広場はどうしていたか。
→広小路はあった。道路は住民がお互いに掃いたりして管理していた。

・朱引内、黒引内の範囲があったところの境界は今でも残っているのか。
→残っている。私は東京市と東京府の堺に住んでいた。山手線は貨物運搬用に市街地の外に作られた。

・町割りの標準寸法はどのようにつくられたか。
→平安京もこの寸法になっている。


続く(クリック)!


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