平成17年4月現代まちづくり塾
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★★4月度「現代まちづくり塾」(第27回)報告★★
日時:2005年4月16(土)13:30〜16:45
場所:文京区民センター2F−D会議室)

■田村明「現代都市・まちづくり講座」
−都市の過去・現在・未来−

第一部都市の原理(T〜Yまで予定)
T都市の発生とその意味−都市文明を問う(修了)
U世界の都市とその興亡−都市文明の歴史−比較都市論

−人間はどのような都市をつくったか−(シリーズ11回目)

テーマ:11.日本の都市
(2)江戸・東京はなぜ日本の首都になったか
---江戸時代の都市
講師:田村明氏(地域政策プランナー)

参加者:19名
●江戸=東京の位置
関西から見ると関東は文化果てる土地と言える。しかし江戸開府で幕府が置かれたので首都となった。地理的には関東平野の真ん中で江戸は湿地帯でどうしようもない土地だった。利根川など大きな川が集まっていて葦が生えていた。

武蔵国は丘陵地帯で水田にも適さなかった。陸路として東海道、東山道があり、東海道は上総、下総から入る道があったが後に相模の方向に付け替えられた。上野から入る東山道もあった。

帰化人は関西から、高麗→狛江、秦→秦野、新羅→志木へと移動して来た。関東にはこのように帰化した地名も多い。

そのような土地に家康は幕府を開き、浅草寺を建てた。


●江戸の歴史
浅草寺は隅田川が近くにあり水利がよい。河口には江戸港があった。昔は秩父などの丘陵地が栄えていたが江戸氏が江戸港に移住してから湿地帯である関東の中心が栄えてきた。その後、江戸氏は六郷、中野、渋谷、喜多見、小日向、飯倉などに拡散した。その後、太田氏が栄えたが江戸の名前が残った。


●なぜ家康は関東にきたか
家康は秀吉や後北条氏の関わりを嫌って関西から遠い関東の地に移住した。家康の思惑は秀吉の目の届かないところで天下への野心があったのではないか。ではなぜ鎌倉や川越ではなかったかというと空白地帯を選んだ。平将門の首が飛んで鳥越を飛び越えたところに首塚があるという言い伝えがある。家康は平将門の天下統一の夢を実現しようとしたのではないか。神田明神は平将門を祭っている。250万石の大名がこのような土地に来たのは天下への夢があった。


●徳川幕藩体制の成立
幕藩体制では50くらいの藩を簡単な理由で首にすることが出来た。国替え、お家廃絶、作業などの命令権で中央集権のしくみをつくった。また公家諸法度を制定し、幕府と公家の二元性を敷いた。寺にも制度をしいて統制した。幕府が江戸にあるにもかかわらず関西へは東海道を「上る」と言った。大阪は流通の拠点としてあり陸路の東海道に対して海路の拠点として紀州藩に譜代大名を置いた。


●ダブル首都の時代
家康は江戸に幕府を置きながら駿河に城をつくって静岡に住んだ。内政は江戸に任せて豊臣家の処遇、外交などの重要な案件は駿河で行った。大久保彦左衛門は駿府のスタッフとして居た。


●明治維新
大政奉還のときに首都は江戸から京都に移った。公家は政治の能力がなかったので前島密は東西二京論で新政府を東京につくった。また奥羽越列藩同盟があり、戊辰戦争の平定のため天皇に東方に行幸してもらった。その後太政官を東京に移して転都した。これがなかったら首都は京都だったかも知れない。


●東京をつくったのは
大田道灌は東京をつくった人ではない。明治政府は徳川の名を消すために大田道灌を引っ張り出したのではないか。


●会場から
・明治政府は徳川の都市づくりの手柄を横取りしようとしたのではないか。江戸の町割りなどのハードウェアは江戸に習ったと思う。水路から江戸港を考えると良い立地だと思う。→江戸は関東平野の湿地帯で空白地帯だった。東京は偶然と必然の産物である。

・風水の考え方は使われたのか
→後からの理由付けかも知れない

・サンズイに奏でる「湊」は淡水港?水運が重要とすると世界の古代都市で川がからんでいない都市がある。昔は道路なんてなくて川が重要だったんですよね。
→そのとおりです。車輪を使うようになったのは幕末です。

・徳川幕府は封建制ではなくて官僚制を敷いた近代だと思う。日本が簡単に近代国家になれたのはそのような土壌があったからだと思う。

・帰化人はとのくらい前から居たのか?
→武蔵の国に居た。

続く(クリック)!


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