平成17年3月現代まちづくり塾
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★★3月度「現代まちづくり塾」(第26回)報告★★
日時:2005年3月19(土)13:30〜16:45
場所:文京区民センター2F−B会議室)

■田村明「現代都市・まちづくり講座」
−都市の過去・現在・未来−

第一部都市の原理(T〜Yまで予定)
T都市の発生とその意味−都市文明を問う(修了)
U世界の都市とその興亡−都市文明の歴史−比較都市論

−人間はどのような都市をつくったか−
(2004/2/20〜12回シリーズ予定−その11回目)

テーマ:11.日本の都市
(1)藤原京、平安京、平城京、鎌倉
講師:田村明氏(地域政策プランナー)


参加者:14名
●環濠集落
吉野ヶ里、三内、丸山
環濠、柵、物見−シンボル的構築物、集会場、ゴミ捨て場

●王朝の都市国家統一のシンボル→中央集権行政機関−ミヤから京へ
飛鳥板葺宮、近江大津京、飛鳥浄御原宮は都市ではなく天皇のいる宮が転々としていた。
藤原宮(694−710)は本格的な京の最初のもので大路に囲まれた碁盤目の都市を形成していた。都市づくりは中国からの輸入文化だった。
難波宮−難波は瀬戸内海の一番奥にあって朝鮮半島から遠かった。前期は654年までだったが、744年になって後期難波宮が再興した。
平城京は710年本格的な都市として興った。749年大仏開眼した。この間にも恭仁京、紫香楽京とあちこちに都をつくって天皇は逃げ回っていた。
長岡京は完成したもののあまり住まなかった。桓武天皇の奥さんは韓国人だった。
しがらみがなかったので平安京への遷都を決めた。

●平安京
平安京(794)は唐の長安の様式を借りた。大路は85mの幅があった。右側が栄えて京極は都の端だったが、鴨川を中心に栄えた。都市は人為的に左右対称につくっても川を中心に栄えてしまったのでなるようにしかならないとも言える。長安(西安)は今でも形を保っているが京都はそうでもなくなっている。日本では都市計画は絵でそのとおりにはならない。

●鎌倉

●商業都市
博多は瀬戸内海から韓国へ抜けるまちだったところへ都市が出来た。
泉州堺は寺社の多いまちである。
平戸・長崎は江戸時代に形成された。

●戦国時代の都市
都市は軍事的拠点でまちをつくっていなかった。山城が多くまちはつくれなかった。
「惣」とは町衆の田舎版で強いものが長になって役所集団を形成していた。
織田信長は安土城をつくったが図面が無いので復元できない。ローマ法王庁にあるらしいがわかっていない。説はいろいろあるが確定しない。ここでは城下町を意識的につくった。

●会場から
・京都御所は平安京には無かったのか?
→天皇は別荘のほうに住んでしまっていた。
・どうして建前の都市計画ができたのか?
→中国を意識したと思う。
・都市の移転は簡単にできたのか?
→簡単にしていたようだ。
・難波宮は首都だったことがあるのか?
→瞬間的にあった。
・中世の日本では城下町が出来て、ヨーロッパでは都市連合が出来ているがなぜ日本
では商業都市から発達しなかったか
→軍事が優先した。

■塾生の話題提供
「港とまちづくり」
報告福田倫丈氏(坂井市役所)

(略)

(まとめ:池沢)
平成17年5月24日
NPO法人まちづくり協会・「現代まちづくり塾」担当・三橋重昭


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